2013年8月31日土曜日

結果は常に「今」だから。

夏の友好期間が終わって、
財務の申込書を持ってきたり、日程表を持ってきたりと、
学会員さんによる地区の家庭訪問が復活しました。

もしかしたら旦那が財務をやりたいと言い出すかもしれないから、
一応受け取った広布部員の申込書。
でも「おまえに任せる」と言われたので、
今年からお断りをすることにしました。

お友達の白ゆり長にその話をしていたら、
「罰が出てからでは遅いから言うのよ」
と、さすがに説教をされてしまいました。

財務をしない・・・ことで罰が出ると思ってるんでしょうか。
そういうところを私は、ぐいぐいと突っ込んでいきたいと思っています。

「罰が出てからでは遅い」というのは明らかに脅されてるのだけど、
多分、彼女は、脅すつもりもなければ、自分が脅されてる自覚もない。
ただ親切で「あなたのために」説教タレてくる。
そんで多分、本心。

責めてるつもりもなければ、馬鹿にしてるつもりもないんです。
誰でも、罰と功徳を振りかざされ、
密な人間関係の中の繋がりを強調され、
退転は堕地獄で、
他に選択肢はなく、
我々だけが正しいと教育されれば、
似非宗教思想に屈してしまう可能性はあるし、
同じ仏教でも、自由と解放の精神を受け止める人もいれば、
厳格なあるべき論と受け止める人もいるわけだけども、
より縛りがキツいほうが「従えば良いだけ」っていう安易さと気楽さを生み出すわけで、
要はアソコは、入り込みやすさっていうのも兼ね備えているわけで。

それで結果的にオーライなら、100歩譲ってそれでもいいのだけども、
その中ですら不満や迷いを抱えちゃってるような人は、
結果すらオーライじゃないっていう悲劇があるわけで。

その友人も、白ゆり長をやりつつ、
新聞や書籍、民音なんかの経済的負担に対してNO!と言い出していて、
それでも拒否ったら罰が出る・・・という観念からは逃れられない状態。

モヤモヤなまま活動する人も、アンチな人も、アンチのアンチなんて人も、
結果はオーライじゃない。

なぜって結果は常に「今」だから。

2013年8月4日日曜日

学会組織=魔・・・という話。

「幹部はおかしいが先生は正しい」

そういう人は多い。
私の身近にいる隣の地区の地区幹部達が、今その状態。
選挙で疲れてしまって、活動への疑問が渦を巻いている。

「でも、みんなそれぞれに先生、先生って言ってるのに、
幹部だけがおかしいってのはおかしくない?」

って聞いてみたら、「新・人間革命の10巻を読んでないの?」と言われた。

読んでない。

旭日大学校(婦人部の新・人間革命勉強会)で読んだのは5巻までで、
それ以降はどうしても読み進む気になれず、
そのあとは旭日大学校も行かなくなった。
(私の不信の引き金の一つが、あの小説だったんす。)

どうも新・人間革命10巻には、学会の選挙運動に関して、

「幹部はおかしいが先生は正しくて、
先生は、会員一人一人を心配して、
学会の将来を憂いておられる。」

というようなことがビッチリ詰めて書いてあるらしい。
(それを書いてるのが池田氏本人という設定を信じるのならば、
自分で言うか・・・それ、っちゅうか、
なんだか言い訳がましい話なんちゃうかなとも思うんですけどもね。)

「じゃあ幹部はおかしいとしとくけども、
新聞にも、活動を鼓舞するようなことが書いてあるけど、
じゃ、新聞もおかしいの?」

と聞いてみたら、

「新聞に書いてあることは基本的には励ましで、
少しおかしなことが書いてあったとしても、
目的を見失わない自分がいれば良いこと。
人に振り回されてはいけない。
人は自分の信心を鍛えてくれる。
人ではなく、先生を見ていれば間違いない。」

って趣旨の答えが返ってきた。
まあ、おかしいな…とは思ってるってことだわな。

要するに、幹部も新聞もおかしなことばっかり言ってるけども、
「先生と私」だけは目的を見失わず、
周りはどんなに変だろうと、一人立つ信心があれば良いのだと。

それってしかし、「組織宗教」として破綻してませんか。
「組織」は信仰心の足を引っ張ってるだけなんじゃありませんか?

それに打ち勝って一人一立つ・・・とは、
創価学会組織は会員にとっての「障害」であるということですか?

一人一人が「地涌の菩薩」であるはずなのに、
幹部会員が他の一般会員の足を引っ張って「魔」の働きをし、
仏の境涯を啓く手助けをしてるっていう話なんですかね。( ̄▽ ̄)

で、それが「仏道修行」だという話なんですかね。

一会員 対 学会組織は、
一修行者 対 魔・・・って言ってるわけなんですかね。

あまりにへんちくりんすぎて、頭が整理できません。( ̄▽ ̄)
が、「無能な部下を嘆く池田氏」という設定が、
最後にして最強の砦となっているのかもしれないと思った次第。

2013年8月3日土曜日

「許さない宗教」



2013年8月1日木曜日

模倣を良しとする人たち。





やっていることはとてもよく似ているのに、
まったく違うどころか正反対の考え方の人たちがいて、
例えば、ニッコリと微笑む仕草をひとつとっても、
朗らかでフレンドリーな性格の人の自然な笑顔、
良い人に見られたい人の笑顔、
明るい人柄に見られたい人の笑顔、
敵意はありませんよという表明の笑顔、
いろんなニッコリがあるわけで。

「模倣を良しとする=意味が分からなくても行動が大事」
なんてことを言っている人たちは、
例えば、
意味が分からない漢文の「お経」を呪文のように唱えることも肯定的に考えるし、
心が無くても、人に尽くすことは福運をつむことになるとか言うし、
でも、
実は意味がわかっていない、
実は相手のことなど考えていない、
・・・・・、
それってとっても重要な事実だと思うんですけども。

本質的に中身が違うってことは、
甘く見過ごして良いことではないと思いますっす。

【追記】ああ、それってもちろん「自分に向ける目」の話だよ。