2013年2月2日土曜日

「道理」と「功徳」

例えば、受験をするとき。

勉強もせず題目をひたすらあげたって合格するはずがなく、
そこはしっかり勉強して合格を目指すのが道理。

勉強という因を積み、
合格という果を手にする。

それは、題目をあげた功徳でもなければ、
「勝利の実証」として、体験発表をするような事柄でもない。
道理が通ったという話だ。

題目をあげて、功徳があるとすれば、
例えば、「何かしら人のために...」なんて考える
心根のよさが人柄ににじみ出て、
思わぬ場面で引き立てを得られたりする、
そういう話だと思う。

努力の因が、果を結んだということは、
自分の力で手に入れた、頑張ったのよねん♪と
自分をほめてあげるべき場面であって、
それを「信心のおかげ」と捉えると、
自己肯定感が薄れ、
自覚的かどうかは知らないが、
信仰がなければ勝てない私という「依存」が生まれてしまう。

「功徳の体験」が盲信者を生み出し続けるのは、
道理を功徳と錯覚し、依存が生まれ、
仏法とは名ばかりのご利益信仰へ堕ちていくからだ。