ああ、なんかわかった。欲なんだな。欲が深いから、取引に反応して、そんで組織依存も生まれるんだ。「言ったじゃないですか」なんだ。そうか。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年2月16日
導師の立場が言った言葉にこだわるのは、「そういう契約ですから」みたいな、「そうでなくては困ります」みたいな、それが転じて守るべき正義なんだ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年2月16日
以前、とある宗門くんが、Kはやり方と答えを提示していないって文句言ってたけどね。それがそう、取引なんだな。蔑まれて傷ついた心ゆえに。。。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年2月16日
ご本仏がこう約束されているのだ…だとか、
それが正法なのだから逆らえない…だとか、
そんな言い方をされたことがある。
文証とは、教主と信者との間に交わされた、
悟りや幸福を報酬とした取引の契約書だとでも言うんやろか。
それは自ら見出すことをせず、
権威ある何かの提示する「失敗しそうにない方法」に人生を委ねる生き方。
遠回りせず、危険を犯さず、安全に生きたいという欲だ。
自ら見出すことをやめたのは、
権威に蔑まれ、教育に標準化され、内なる宝珠を見失い、
精神が服従してしまったからだ。
修行という名の労働や金銭を媒介にして「方法」を手に入れようとする。そして悟りから離れて方法が目的と化す。儀式、形式。 RT @shirayuri_kun: Kはやり方と答えを提示していないって文句言ってたけどね。それがそう、取引なんだな。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2013年2月16日
方法は運動となり労働となり、その一方で理論と化す。運動は技術であり、理論は知識にすぎない。生の本質は運動や知識に収まるものに非ず。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2013年2月16日
宇宙の本質は風や波に表れている。風や波をつかまえることができるだろうか? しかもどれひとつとして同じものではない。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2013年2月16日
教主との契約を守り伝える教団は問答無用に正義となる。
それは断固守り抜かなければならない。
方法はいつか「活動」と呼ばれ、
そして、本来の目的から離れて行く。
瞬間だけが生だ。
瞬間こそが永遠だ。
三世永遠の幸福もいいが、
生きている今の瞬間を「活動」に生きることは、
永遠に「活動に生きる」ことを意味する。
永遠に「手段」に生きることを意味する。
形式を重んじるとはそういうことだ。
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